以前のことですが、静岡の保育園で、保育士が園児を虐待したとのことで問題になっています。
この問題は警察沙汰になり、保育士たちは容疑者として扱われています。
もちろん虐待は、あってはならない問題です。
とくに、まだほとんど何もわかっていない幼児を虐待することは責任重大でしょう。
しかし、虐待はあってはならないものの、人は、しつけられることは絶対に必要です。
ウィキペディアにも
しつけ(躾・仕付けまたは仕付)とは、人間社会・集団の規範、規律や礼儀作法など慣習に合った立ち振る舞い(規範の内面化)ができるように訓練することで、教育の一種である。概念的には伝統的な子供への誉め方や罰し方も含む。
と書かれています。
つまりは、しつけは訓練や教育のことであり、時には罰することも含まれるということです。
この、しつけがなく育てられると、子供が将来、非行に走るようになり、不幸な人生を送ってしまうことになるリスクが高くなると言われています。
なので幼い時から、子供には、しつけが必要です。
例えば、人が集まっている場所で、子供が好き勝手に振る舞っているのを、時々見かけますが、それを見ると、親は何やってるんだろうと思ってしまいます。
ところで、どこまでが、しつけの範疇で、何が虐待になるかとなると、その判断は容易ではありません。
上記の保育士も、しつけのつもりで行ったと述べています。
しかし、しつけが行き過ぎてしまうと虐待者とみなされてしまいます。
とくに最近は、宗教2世で、親から厳しくしつけられたことを恨んでいる人もいます。
しかし筆者の知り合いのなかで、宗教2世として親から厳しく、しつけられても、そのことで親に感謝し、親に深い愛情をもっている人もいます。
その違いは何なのでしょうか。
おそらくは、親の厳しい、しつけが親の子への深い愛情として行っているかどうか、また絶対に子供を、否定するようなことを口にせず、子供のために思って行っているということを示しているかどうかによるのではないかと思われます。
「あの子はできるのにどうして」と他の子と比較したり、「あなたはダメ」と言ってしまうと、子供は親に対して心を閉ざしてしまいます。
つまりは正しく、しつけているならば、子供はそれゆえに親に愛情を抱くのだと思います。
なので性的虐待でないならば親子関係での事なので、それをいちいち社会に訴えるのはちょっと違うのではとも思うのですが・・。