先日、母の自宅内にある、水屋を動かす必要が生じました。
水屋といっても何?と思われるかもしれませんが、ウィキペディアには
水屋(みずや)とは、茶室に隣接して設置される設備。茶事の手前に必要となる茶道具や水などを用意するための場所で一般の住宅でいう台所にあたる・・水屋では棚に置かれた茶碗や腰板に掛けられた柄杓や茶筅など茶道具類が整然と配置されており
(アクセス日2020/7/21)
と書かれていますが、今では台所に置かれた家具のようなもので茶碗やコップといった食器等やお箸やスプーンなどを収容しているものです。
この水屋を動かすさいに、水屋に収納されている茶碗やコップなどの食器を、すべて出さなければならなかったので、手伝いに行ったのです。
すると、出るわ出るわ、たくさんの食器等が収納されていたのです。
おそらくはこの数年、いや十数年使われていない食器等もあり、この機会に不要になった食器等は処分することにしました。
それにしても処分する食器の多いこと・・
とても大変な作業でしたが、この体験を通して物があれば幸せになれるわけではないということを実感しました。
といっても生きていくうえで物は必要です。

自治体も空き家、空室問題を注視している。
しかし不要な物を所有したところで、幸せになるどころか不幸になるのではないかとさえ思いました。
といのも物を持つならば、物を置く場所が必要になります。
つまりは物のための場所を確保しなければなりません。
もちろんその物が、冷蔵庫や洗濯機のように毎日のように利用しているならば、場所を確保するだけの価値はあります。
しかし数年も十数年も使えなくなって使っていない冷蔵庫や洗濯機を置いているとすれば、生活に足を引っ張るだけではないでしょうか。(そのような人はほとんどいないと思いますが)
これは極端なケースですが、いずれにしても物を持つと、その物のために場所を提供したりと所有物のために投資をしなければならないのです。
もちろんその投資が現在、十分に活用しているものばらば、それに見合った投資といえますが、不要な物へと投資となれば、その投資は無駄なものになってしまいます。
私の知人のなかにも、新しい服を買ったら、不要度の高い別の服を必ず処分するという知人がいましたが、そのようにして所有物を極力増やさないようにしている賢い知人がいました。
そのようにして身軽なシンプルな生活を送っているのです。
聖書のなかにも
なぜならば、わたしたちは、何も持たずに世に生まれ、世を去るときは何も持って行くことができないからです。食べる物と着る物があれば、わたしたちはそれで満足すべきです。金持ちになろうとする者は、誘惑、罠、無分別で有害なさまざまの欲望に陥ります。その欲望が、人を滅亡と破滅に陥れます。
新共同訳聖書
引用:https://www.bible.or.jp/read/titlechapter.html(アクセス日2020/7/21)
と書かれていますが
・死ねば所有物をすべて失うことになる
・生活必需品で満足する
・金銭欲や物欲が強くなりすぎると、人生を台無しにしてしまうリスクがある
といったことを教えているようです。
それで不要な物をかかえないシンプルな生活を送るほうが人生の幸福度が高くなるのではないかと思います。